中山 淳【なかやま・あつし】

ワールドサッカーグラフィック副編集長。
現在は独立し「フットボールライフ」編集長。
加部人脈のひとりであり、WSG時代は日本代表の記事においての悪意に満ちた文章で知られた。
スカパーのサッカー中継で解説も務めている。


阪神タイガース【はんしんたいがーす】
甲子園球場に本拠を置くプロ野球球団。関西を中心に多くの熱狂的ファンを持ち、特に大阪近郊では社会的、文化的にも大きな影響力を持つ。
そのため、関西におけるスポーツ報道はほぼ阪神メインで占められており、時に日本代表戦よりも阪神戦を優先するテレビ中継、サッカーに明らかな敵意を示すメディアは多くの在阪サッカーファンの憂鬱の種となっている。
金子達仁は自ら、神戸に在学中に阪神(金子曰く「虎さんチーム」)ファンになったと主張し、サッカーダイジェスト編集部時代には、「甲子園に行きたいが為にガンバ大阪担当になった」と公言している。
ちなみに、03年当時、Numberは出版社である文藝春秋星野監督(当時)から名誉毀損で裁判を起こされたために、阪神側から取材を拒否されたと噂されており、阪神特集号(No.581及び584)でもOBや他球団選手へのインタビューや分析記事のみで、現役選手・監督本人への直接取材はなかった。

平尾誠二 【ひらお・せいじ】
ラグビー日本代表監督。選手として伏見工業高校で全国優勝、同志社大学では大学選手権3連覇、社会人選手権では神戸製鋼で7連覇を経験、ワールドカップにも3度出場し日本ラグビー史に名を残す。
選手引退後の'97年、日本代表監督に就任。スマートな理論派のスタイルがメディアに持ち上げられ、さかんにビジネス書(『プレジデント』等)に取り上げられる(平尾自身もこの時期多くの著書を出している)。この流れには玉木正之二宮清純といったライターも大きく関わり、「自由」「創造性」と言ったフレーズがさかんに使われた(これは後に、ジーコ時代のサッカー日本代表でそのまま再現される)
しかし、'99年のW杯で3戦全敗。その後のヨーロッパ遠征でも惨敗し、2000年辞任した(事実上は解任と言われる)。しかし、その後もメディアには好意的に扱われている。
金子達仁永井洋一と対談したことがある。ラグビーライターも彼に対して賛否両論だが、中尾亘孝は特に粘着批判しており、そのとばっちりか、著書等で玉木や平尾と対談した金子らをも批判している。
また、藤島大も直接的ではないものの、平尾時代のラグビーを取り巻く環境に対して批判的な立場を取っていた。



フィリップ・トルシエ 【ふぃりっぷ・とるしえ】
元・日本代表監督。(任期1998〜2002)「白い魔術師」「身勝手なフランス人」「運だけの監督」「最低の人間性」「束縛と対立」「中身の薄い男」「誰もが二流と思っている監督」「無能」「トチ狂った采配で日本を敗退に導いた男」「エキセントリック」「死人」「選手の自立を認めない監督」「フランス代表監督『候補』」「自分の名声を高めたいがだけに日本代表を利用した男」「コーチとしては一流、人格は三流」

発言、采配、人間性、ほとんど全てに疑問符を付けられながら、結果(ナイジェリア・ワールドユース準優勝、シドニー五輪ベスト8、'00年アジアカップ優勝、'01年コンフェデ杯準優勝、'02年ワールドカップ決勝トーナメント進出)だけはキッチリ残した。特に2000年のアジアカップは爆発的な攻撃力を以って制覇し、サッカーマガジンにして「アジアは日本より10年遅れている」を書かさしめた。
その後、韓国が初の外国人代表監督としてヒディンクを招聘したのもこれが呼び水である。
その言動ゆえに、電波を呼び込む特異体質(ただし、自身にも「電波発言」は多い)。日本代表における国際Aマッチの成績は23勝16分け11敗。
日本を離れた後はカタール代表、オリンピック・マルセイユ、モロッコ代表の監督を歴任するが、いずれも短期間で解任されている。(むしろ、4年間任期を全うした日本時代が異質とも言える。マルセイユ時代には中田浩二を移籍させ、サミル・ナスリを抜擢した。半年で解任されたトルシエには皮肉だが、ナスリの件でフランスサッカー史に名を残すかも知れない)
06年、イスラム教に改宗した。ドイツ・ワールドカップ時はテレビ東京の番組に出演。オーストラリア戦において、「中盤でのキープ力を求めたが、逆に前線でのプレッシャーが低下した」ジーコの采配(柳沢に替えて小野投入)が敗因のひとつと指摘した。(決して小野個人を批判したものではないことに注意)

関連:田村修一


フース・ヒディンク 【ふーす・ひでぃんく】
前・韓国代表監督。PSVアイントホーフェンを率いて1988年のチャンピオンズカップを制覇、オランダ代表(98年W杯4位)、レアル・マドリーベティス監督を歴任し、2002年1月韓国代表監督に就任。婚約者が黒人であることや、W杯直前まで思うような成績が残せなかったためにマスコミ、サポーターからあらん限りの中傷、罵声を浴びるが(フランス、チェコに5−0で負けた時は特に酷かった)、2002年W杯で韓国をベスト4に導いたことから一転、神のごとく崇められ、名誉国民の称号を与えられる。そのサッカーは攻撃的かつ組織的なオランダ・サッカーを指標とし、高いレベルでのフィジカルと運動量を要求する。試合終盤、相手の疲労を見計らって前線に攻撃的な選手を投入し、圧倒する戦術を得意とする(W杯日韓大会の韓国−イタリア戦、ドイツ大会の日本−豪州戦が好例)また、選手のメンタル・マネージメントに優れていることでも知られる。
就任当初は韓国でも4バックを採用しようとしたが、選手が対応できず断念した。(この報を聞いて驚いた杉山茂樹が慌てて確認を取りに韓国に飛んでいき、「ヒディンクの3バックは攻撃的な3バック」と安堵したのは有名な話。実際のところ、この3バックが安定したのはワールドカップ寸前に長期負傷離脱から戻った大ベテラン、洪明甫の復帰による所が大きい。)

日韓W杯終了後、古巣PSVの監督に就任。子飼いのパク・チソンイ・ヨンピョのふたりをPSVに移籍させ、プレミアに送り出すなど韓国代表の強化に間接的に貢献している。韓国人選手を優遇する姿勢にはPSVの他の選手たちから不満の声も出ていたが、主力を大量に失った04-05シーズン、欧州CLにおいてベスト4の成績を残し、批判を封じた。
W杯ドイツ大会の韓国代表再就任の噂もあったが、『Sports Yeah!』の記事によれば「(韓国代表監督就任について)もう二度とこんなミスはしない」と発言し「再び韓国に戻るということを考えているとはとても思えない」とのことである。
05年、オーストラリア代表監督を兼任し、W杯予選突破に貢献。本大会ではベスト16に進んだ。ドイツ・ワールドカップ終了後、ロシア代表監督に就任。
杉山茂樹金子達仁らにより非常に高く評価され、ワールドカップ共催国だった韓国やドイツ大会で対戦したオーストラリアを率いていたこともあって、日本サッカー批判の出汁に使われることが多い。
(しかし、両者が大きな影響を受けたスペインリーグにおいては、ヒディンクは結果を残せていない)